2012年3月23日金曜日

解があるから問題がある。違いますか? 詰将棋を考えた人はその詰将棋の解き方を


解があるから問題がある。違いますか?





詰将棋を考えた人はその詰将棋の解き方を

知っています。数学の問題を考えた人はそ

の問題の解き方を知っています。



人生上の、また哲学上の難問についても、

やはりそれを考えた人に尋ねるのが一番

早道だということになりませんか?

もっともそう簡単には教えてくえるとは

考えておりませんが。

それにそれを考えた人がどこにいるのか

も分からないわけですしね。


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問題がない時、全ては解なのです。





『問題』というのは、それに、あるいは、そこに、『問題』があるのか?ないのか?という意識の問題なのです。



つまり、ある誰かが



世界は全くもって正しい、間違いなどどこにも見当たらない、故に問題などどこにも見当たらない。



と宣言した時、彼にとっては、あらゆるどんな問題も存在しないのです。



彼に誰かが問題を提示したとしても、彼にとってそれは、問題ではないので、答える事を必要としないのです。



つまり問題がない事、疑問がない事が、答えそのものなのです。





この事は、個別の問題と解答の事ではなく、問題と解答の関係性を普遍的に捉えたものです。





何かについて、その真理を掴もうとする時、それそのものに対する深い洞察を要するのです。





個別の範囲では、その実態は掴めません。



詰め将棋の問題と解答の関係性は、個別の範囲と言えるのではないのでしょうか?





数学の世界では、今だ未解決の命題がある様ですが、やはり、先に立つのは答えではなく問題なのです。ある意味当たり前の事ですが。





それは、数学というものが一つの解を必要としているものだからです。





これはスケールと状況は違うかも知れませんが、個別の範囲という意味では、詰め将棋と同じなのです。





問題とは何なのか?

解答とは何なのか?

その関係性とは何なのか?



それらを洞察する事が、哲学的命題であり、その真理を暴く一つの道筋ではないのでしょうか?









例えば、この世は、何故存在するのか?という疑問があるのなら、その人にとっては、その疑問があるからこの世が存在している事になるのです。



世の中に疑問を想像し、創造しているは、自分自身に過ぎないという事です。







しかし、この様な答えには意識は中々到達出来ません。



我々の意識はとても狭い見識でものを考えてしまう癖があるので、個別の解答を検索して途方に暮れてしまうのです。



けして、疑問そのものに対する洞察を行おうとはしないのです。





知らないから疑問があるのではなく、疑問があるからから、知らなくなってしまうのです。





初めそこには、何一つ問題など存在していません。



そこにあるもの全てが答えであり、その答えは問題を必要としなかったのです。全ては、在るがままにパーフェクトなのです。



しかし、我々はを教えられ選ばされ、それらが知識となって蓄積し、問題は山積みになり、答えは探さなければならないのです。



知識で盲目になった意識では、個別の解答を探すばかりで、問題と解答そのもののの中に(外側ではなく内側に)入っていく洞察力を失いがちになるのです。







知識が人を物知りにする事はあっても、解放する事など、まずあり得ないのです。





知識と知性は違うのです。頭とハートも違うのです。


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世の中には解けない問題の方が多いと思いますよ。数学の問題だって最前線なら

数学者がああでもないこうでもないって必死になって考えて仮説を立ててるんですから。


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考えたのは神であり、ここにいるはずじゃないんですか。


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人生については置いておくとして、哲学に関して言うなら、

「解があるから問題がある」という考え方は明らかな誤りです。



大半の学術研究は、問題を立てることを重視します。それは

答えがあるから作られるのではないです。むしろ正反対で、

問いをたてるから解が生じるのです。



哲学では、一般に当たり前と思われているところに、問いを

たてることで、当たり前ではなくして知的に探究していきます。

その結果、一応の解が得られます。



もちろん全てがこのような問いとは限りませんが、多くの学術研究も

誰も注目していなかったところや、これまで自明視されていた所に

問いをたてることで切り込んでいきます。そして、その新たな視点から

得られた限定的な解が誕生します。



学術研究に関しては、決して解があるから問題があるわけではありません。


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俺は何で生きてるんだろう?

やはり解はあるんだろうなあ・・・

でも死ぬまで解らないし、死んでも解らないような気がする・・・


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問題をとくことによって、自分の血肉になるんじゃないですかね。

答えだけ知っても意味ないような気がする。


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数学には100年経っても解けない問題が多々あります。有名なポアンカレの予想。最近ロシアの天才によって、1問だけ解が証明されました。

多額の賞金が有り、又、数学者、を主として、世界中の人々が取り組んでいますが、なかなか解けないのです。

手近な所で、4色問題、之は解が見つかりましたが、多年数学者を悩ませ、一方では誰でも手近に取り組めて、有名な話です。


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>解があるから問題がある。違いますか?



解の無い問題もある。

解があるかどうかさえ分からない問題がある。



「解がある問題を考えるのは高校レベルまで、大学は解があるかどうかさえ分からない問題を考えるところだ」

と私の通った三流大学の教授が言っていた。



社会に出ればなおさらのことだ。



詰め将棋や高校レベルの問題のように誰かが解を用意した問題を解くレベルで終わっている人間には一生わからないだろう。



将棋の対局の解でさえあるかどうか分からない。



>それにそれを考えた人がどこにいるのかも分からないわけですしね。



いるかどうかも分からない。

難問が考えられたものかさえ分からない。



インテリジェント・デザインには、設計者がいるか、設計者が必要かどうかも吟味せず、ゴミのような結論を導き出して、喚き散らしている人間の残念さが如実に現れている。



すべからく宗教はヒトの理性を鈍らせ知恵の成長を妨げる。

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